密蔵院 賢沼寺
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弁財天の歴史
弁財天縁起
Benzaiten History
この辨戝天堂は真言宗天光山密蔵院賢沼寺の附属佛堂として管理されています。
沿革は大同2年(807年)徳一大師の創建にして、磐城城主 海東小太郎清衡の開基です。その後、永享3年(1431年)大和國より光蔵律師が来錫し現在の地に移座しました。
平安末期、保元2年(1157年)岩城領主の妻女で出家した徳尼といわれる方が草案を結んで、観世音を信仰していたが、ある時、悪夢の中で天女像が薄磯の宿ヶ崎海岸に降った事を告げられ、政井五兵衛の先祖が拾い来たったその像を祀ったのがこの弁天堂であると伝えられています。
その頃より代々の領主の尊信篤く、建造物及び寺領の寄進あり、辨戝天奥院は延享4年(1747年)平城主 内藤備後守の御造営され、拝殿は明治に造立されました。本尊は木造彩色の「青龍八臂辨戝天」(秘仏)となります。平成23年(2011年)3月11日東日本大震災により、奥院が倒壊し、現在は拝殿のみとなっています。
毎年、1月1日に元朝護摩祈祷、5月5日に辨戝天大祭を開催し、秘仏である「青龍八臂辨戝天」を御開帳しています。
また、己巳の日・癸巳の日は弁天様のご縁日と位置づけされ、多くの参拝者が訪れます。この神聖な場は、古くからの信仰を受け継ぎ、地域の人々にとって重要な祈りの空間となっています。
楼門
Gate House
密蔵院楼門は、密蔵院賢沼寺の境内にある弁財天の山門です。延享4年(1747年)、内藤備後守政樹の代に造営が始まり、翌年完成しました。大工棟梁の平鎌田の杢七、木挽の甚三郎によって建築されたことが棟札に明記されています。
この楼門は三間一戸楼門(さんげんいっころうもん)の、入母屋造(いりもやづく)りで、以前は柿葺(こけらぶ)きであったが、現在はトタン葺きです。腰組斗 ・二階斗 ともに三手先組で、全体的に形が小さく、特に肘木は和様とも禅宗様とも云い難い地方色豊かな技法が用いられています。斗 間には蟇股(かえるまた)と雲・水・鳥・草花などの透し彫りの装飾が施され、木鼻や虹梁(こうりょう)なども構造性より意匠的な面が重視され、技法も人胆であります。基礎は16個の基石上に土台を据え、対辺22㎝の八角形の柱を建て、正面両脇には内藤備後守政樹寄進の風神、雷神二神が安置されています。
壁は板壁で、二階床上には組高欄が設けられています。また、この楼門の垂木の配置は特徴的で、正面は配付垂木〔平行垂木)、その他三面は、放射状に配置された扇垂木になっています。この技法は当地方でも数例しか見られず、特記に値する構造であります。建築様式は和様と禅宗様との折衷様式(せっちゅうようしき)で、背面尾垂木上部に鳥の彫物を置き、その他の彫物装飾も、華美になっている傾向がみられます。
また棟札には、次のように記載されています。延享四年八月七日平城受取渡因茲大工中永引戊辰夏中葺地出来彫物等極彩色江、戸細工棟梁大工、平鎌田町杢七龍澤木挽甚.二郎本社四本槻小川山御拜貮本下高久村而伐石切信州庄内時延享五龍在戊辰卯日吉祥日棟上目出度相調畢
魚見堂
Fish Viewing Hall
魚見堂は文化6年(1809年)に建立され、長らく地域の人々や参拝者に愛されてきました。近くに広がる沼は、信仰の場としても親しまれ、参拝者の憩いの場となっていました。しかし、2011年3月11日に発生した東日本大震災によって護岸が崩壊し、魚見堂も被災してしまいました。その後、2013年6月から護岸修復と魚見堂の再建が進められ、2014年3月に完成し、現在の姿となりました。再建後も、魚見堂は見所の一つとして親しまれています。今もなお、鯉や亀、鴨などの生き物が生息する広大な沼を一望できる場所として、多くの人々に愛されています。
賢沼
kashikonuma
当寺の近くには「賢沼」と呼ばれる沼があります。この沼は「底なし沼」とも言われ、古くから伝説や信仰の対象とされてきました。その神秘的な存在は、地域の人々にとって今なお興味深いものとなっています。
徳尼御前
Tokunigozen
徳尼御前は、大舘城主・岩城則道の妻でありました。夫の菩提を弔うために出家し、賢沼の畔に庵を建てて観音様を拝み続けました。ある夜のこと、観音様が姿を現し、「そなたの信仰心はまことに感じ入ったぞ。そのうち訪ねてゆっくりお話をしよう」とお告げをくださいました。その後、薄磯村の政井五平という人物が、海岸に打ち上げられた天女像を発見し、この庵に納めました。こうして、徳尼御前の篤い信仰と共に、観音様への信仰が一層深まりました。